授業改善の「程度」

夏休みになったので、今月に行う講演会やワークショップを仕込んでいます。学期中は授業を仕込みます。日々発見したことを授業に盛り込むように工夫しています。

ですが「飽くなき探究・工夫」のようなものは持ち合わせていないと実感しています。簡単に言うと、「もっと授業の改善を」「ワークショップのさらなる改善を」という発想を持てずにいます。そしてこれが「成長を止めること」だとは思っていなかったりします。

言うまでもなく「プロ」は紙一重です。陸上だと10分の1秒の中に多くの選手がひしめいています。それは研究・教育でも変わるところはなく、紙一重のところで実に多くの人がしのぎを削っています。

ですが、僕は教育において「紙一重」は余程のことがない限り無視をしていいという考えです。僕が気にするのは「学生の経年変化」であり、年度が変わるごとに学生の傾向に合わせて細部をチューニングするくらいです。あとは授業計画がうまくいかなかったときの調整くらいです。誤解を恐れずに言えば、「授業の反省と改善」はごく小規模にしか行いませんし、授業準備にもさほど時間をかけません。授業ではむしろサステナビリティを重視し、あまりストイックにならないことを心がけています。

たとえば僕は高校時代からイチロー選手のファンでした。イチローの安打は凄まじく、一時期は4割ほどを数えましたし、200本安打の記録が何年も続きました。それ自体はやはり類を見ない記録です。しかし「チームの優勝」となると、1995年のセリーグ制覇、1996年の日本一、2001年と2012の地区優勝くらいであり、二度のWBCを別にすると頂点は1996年の一回だけです(すごいけど)。野球というチーム戦という単位で見ると、イチローの実績は急に寂しいものになってしまい、それが批判の元になったという事実もあります。

教育の改善も、ある意味で安打技術に似ているところがあります。その「紙一重」の向こう側に行くことはは素晴らしいものですが、「教育」という多様な関数にさらされるものの中で「個人の授業の精度」がどれほどの意味を持つのかということは考えておくべきだと思います。

我々が考えるべきは、目の前の生徒・学生の成長であり、そのために「半期15回」「1年30回」の授業ができることには限界があります。一つの授業だけの精度が高いことにさほどの意味が感じられないのです。むしろ学生が授業外で学習し、自分の本質と「学び」を関連させる能力を開発することの方が急務です。「自分の授業のみがハイレベルで心地よい」ということが、全体から見るとマイナスになるかもしれない事実は踏まえておくべきでしょう。

授業もワークショップも、確かに「改善の余地」はあります。しかし「玄人」から見た改善は、ともすると自己満足に陥りがちです。そこに必要以上に執念を傾けるよりは、授業以外で学生と話し、そこで見出した学生のポテンシャルを他の教員の授業や課題にどう結びつけるのかを考えることが意味を持つのではないかと思っています。