「高付加価値」を問い直す

「人文学の高付加価値性」なるものを主張することが多いです。

僕のタスクは「人文学が社会を生きる力を養う」ということを訴えることです。そのために授業とワークショップを使います。授業では主に1年生に丁寧な指導をする必要があるため、「文化の意味」を抽象化して伝えます。

自分の視点での抽象化を提示することは有効ですが、時として学生の理解を陳腐にしてしまいます。たとえばある文学作品で、人間の生死が生々しくテーマ化され、その最後の命題として「命は大切だ」というメッセージが導き出されたとします。それを学生に説明すると、少なからず周りの議論をすっ飛ばして「命は大切だ」という言葉だけが記憶されてしまいます。文脈を無視してしまうと、いかにも陳腐なメッセージに成り下がってしまいます。「いのちだいじに」などドラクエで学べます。

そこでワークショップでは抽象化の文言を極力削ぎ落とすことにしています。文化研究のレクチャーを通じ、学生自身が命題を発見せねばなりません。そのときに我々の前に示されるのは、こちらが予想だにしなかった抽象化です。我々が文化の中に見出す答えは、所詮我々だけの答えであり、実は文化の中には様々な答えが潜んでいるのです。このような多様な解を可能とする文化を「高付加価値」と見なしています。つまり人文学は高付加価値なものであるゆえに、実に多様な意味を内包しており、社会の至るところでその学びを役立たせることが可能なのです。

ということをいつも主張していますが、この「高付加価値」にも弱点があることを実感しつつあります。

あえて人文学以外の例を出します。

今日、水間鉄道のイベントに参加してきました。鉄道は実に高付加価値な文化です。物理学や電気工学をはじめとする理系的側面、都市交通・地方自治・経営といった側面、そしてもちろん人文学的側面を内包します。しかし「何でもかんでも鉄道に結びつける」という風潮は、時として疑問を生じさせることも少なくありません。

その例が「鉄道むすめ」です。これは鉄道会社の制服を着た美少女キャラクターであり、一応「文化」の一側面を担っています。しかしこれはまさに「付加」したものにすぎず、鉄道文化の本質と直接重なるものではありません。それが鉄道に関心を持つ入り口となり、一部鉄道ファンの関心の持続に寄与していることは理解できますし、否定するつもりは一切ありませんが、「鉄道むすめ」から鉄道文化の中心に線をつなげることは無理ではないでしょうか。

文化は良くも悪くも「本質的ではないもの」が「付加」されてしまいます。学生が文化を真っ向から分析し、そこから発想を展開させ、ありえない解釈を提示させた場合、それは面白くはありますが、「誤解」でもあるわけです。誤解に意味がないとは言いませんが、それと元の文化を繋げて論じるときには幾重にも慎重になる必要があります。個人の内奥で様々な形に変貌するのが文化の特徴かもしれませんが、その一方で個人を超越したところに存在する「不変の文化」とのつながりを常に意識しなければいけません。少なくともこれが我々が今後企画するワークショップの注意点となります。