仏文科なるもの

「仏文科なるもの」に対する関心が止まりません。自分自身が東北大の仏文科を眺めながら過ごしてきたこともありますが、なんともノスタルジーに駆られてしまう反面、この世界観にこそフランス語履修者現象の原因があるようにも思えてしまいます。

ところで僕自身は「仏文科」を通過することがありませんでした。学部を過ごした弘前大学は「仏文科」がなく、フランス文学を専門とする先生のゼミに所属するだけでした。東北大では国際文化研究科に所属し、仏文には外部の人間として遊びに行っておりました。就職先も法学部であり、仏文科は当然ありません。仏文科に一度も所属せず、フランス語関係の職についてしまいました。

僕が現在興味を持っているのは「仏文」と「政治思想」の関係です。仏文科の関係者はリベラル好きの人がきわめて多いのですが、その「リベラル」はフランス的というよりも、日本特有のローカルなものだという理解です。そしてこのローカルな政治思想が「学部生」とのあいだにミスマッチを生じさせている点に問題を感じます。

仏文科に限らないかもしれませんが、特権意識ほど厄介なものはありません。その意識は、時として「若者はわかっていない」「文学を読まないからこうなのだ」「哲学を学んだ方がいい」といった正当化とともに表出します。「仏文科」というクローズド・サークルの中での「善政」のアピールは、しばしば特権意識につながり、若者を「勉強不足」「世間知らず」と批判する態度を生みますし、さらには「若い人は右傾化している」などという言説へと発展します。

そのような世界に果たして人が来るだろうか、という疑問があります。もちろん、同一の価値観を持つ学生が来ることがあるでしょう。しかしその価値観は、下手をすると選民思想につながっていきます。

仏文科の分析を経て、この「研究室なるもの」の正体を探り、現在の学生と仏文科のマッチングの可能性を議論したいと考えています。僕は学生の「右傾化」を憂う前に、自分の価値観の「指針」が果たして普遍的かどうか、それが時代的背景を持つ「個別文化的マイナー信仰」でないと言い切れるかどうか、そういったことを議論することが必要と考えます。