VERBEエクスカーション

ERBEのエクスカーション企画で石切神社に行っておりました。

石切に決めた理由は「占い」です。

およそ疑似科学を信じない人間です。人体の秘めたるパワーなるものは一切信じておりませんし、自然食品の治癒作用などもスルーです。そんな僕が「占い」などを信じるはずがありません。ただ妻がそれなりに占いを好んであり、もののついでに僕の運勢を占ってもらうことがあるようです。そういうときに常に「最強」に近い運勢を出してしまうのです。そんなわけで、一度「占い」なるものを体験しようという思いが芽生え、フィールドワーカーの松井さんに案内をお願いし、占い師が軒を連ねるアウターゾーンたる石切神社参道に行ってみたわけです。

占いたるものは本当に意味がわかりません。僕は四柱推命なるもので三碧木星とかいうらしいのですが、これが強運とのことです。しかしそうなると僕と同じ日に生まれた人がすべて強運ということになるので、一気に信頼度は低くなります。

これに姓名判断・手相・易を使って総合的に判断してもらいましたが、やはり圧倒的に強運です。易に興味があったので、易者さんをチョイスして筮竹を使ってもらいましたが、本当に意味がわかりません。本当にただの棒なので、あれで何がわかるのかが理解できないのです。しかし今回i実際に体験し、これを「無根拠」と見なすのが間違いであることに気づきました。あれは我々に想像不可能な「専門知」なのです。そして実際にそこから何かの答えが導き出されるようです。それによると、あと2〜3年してから10年ほどで一気に運勢が好転するらしいです。よくわかりませんが、さらにステップアップする予定です。

総じて「圧倒的にいい気分になって終わった」という体験でした。

占いの科学性はさておき、存在理由は理解できました。いうなればナラトロジー(物語論)です。提示される「運勢」を軸として、体験者(=私)が自分の人生を意味づけていく。これであれば「当たる」「外れる」ということはそもそもありません。つまり占いが提示する物語に合わせて人生という物語が再構築されるのです。いわば占いが求められるのは「物語」の希求であり、さらに言うなら「自分語り」への欲望です。

ここまで整理できると、文学はもちろん、様々な人文学の知見を応用して「自分語り」を導き出すことにトライしたくなります。占いが無くならないことにヒントを受け、占いから抽出できる人間の根源的な感情・欲望を人文学で照らし出すことを考え始めています。