「怪しさ」の意味

石切神社の参道には「占い」が並んでいます。神社の教義とはまるで関係がないのに、占い師が参道に軒を連ねています。ある意味で「不気味」とも捉えられるほど独特な雰囲気があります。

僕があまりにも興奮しているので「占いに感化された」と勘違いする人もいるのですが、正確には「怪しさ」に引っかかっているのです。

日常から宗教性が損なわれ、宗教的行為が失われていきます。その中にあっても、人間は「超自然的なもの」を意識し、誰かの死に意味を見つけようとします。そこには「宗教を信じないのに部分的に信じてしまう」という緩やかな矛盾があります。

宗教性に限らず、現代は「きれいなもの」「合理的なもの」「道理に合うもの」が称揚されます。これは「社会的なもの」「実用的なもの」が推奨される世論と呼応関係にあるのではないでしょうか。さらに言うと「目に見えるもの」に対する過度な期待に溢れているのです。

対して「目に見えないもの」は重要性を失い、「社会的ではない」「実用的ではない」とされ、「合理性を欠く」と批判されます。

そうなのです。実は「人文学的教養」の失墜は、「目に見えるもの」への過度な期待とリンクしているのです。

では「自分」は果たして「合理性」の中に存在するのでしょうか。僕の答えは「否」です。表面的な部分はいざ知らず、心中に潜むマグマのような情念は、とても合理的とは言えませんし、科学的なあり方とは異なっています。そのような情念の表象は、かねてより文学が主題としてきたものでした。たとえば堀辰雄の描く夢幻的な表象や、寺山修司の土着的な怪しさ、大江健三郎の描く宗教描写などに立ち現れています。村上春樹が世界中で評価されるのも、内奥に潜む「何か」を「異界」に結びつけて表象することにあるのではないでしょうか。

占いの「怪しさ」は、近代的な合理主義が取りこぼしたものを象徴しています。いわば占いは「科学主義」からの「逃げ道」です。ゆえに「四柱推命」が「統計学」などと言うことに意味はありません。「星を見ている」で良いのです。そして人間はその「星」の非合理さに逃げ道を探します。

無毒化され、均質化された空間にあって、人間の「非合理性」を象徴するかのような怪しげな「占い」という世界は、合理化が進むほどに求められるものかもしれません。その人間の本質に目を向ける試みは、文学研究の地平と確実に重なり合うように思えます。