「文化」に立ち向かう

関西フランス語教育研究会(RPK)の論考の締め切りに合わせ、二本の原稿を提出しました。フランス・トライアングル研究会のアトリエ(ワークショップ)報告と、「授業における雑談・脱線の意義」を論じたTable Ronde(ラウンドテーブル)の報告書です。どちらも本編は学生やパネリストが欠いてくれたので、僕の分はさほど長くはありません。

しかしどちらも「序」と「結」を担当したので、改めてフランス語・フランス文学を取り囲む日本の社会状況について考えざるを得ませんでした。

結論から言うと、我々の敵は「文化」です。フランス語を学ぶことに意味が感じられず、フランス文学が無用の学問と見なされ、さらには英語が単位の道具とされる「文化」が立ちはだかっているため、教育の意味を考え続けねばならないのです。

本学で仮に4月はじめの時点で新一年生に希望する第二外国語を調査すると、「中国語」がダントツで、二位が「韓国語」になるでしょう。これは大学、あるいは地域によって異なると思いますが、多くの大学で「中国語」がマジョリティを獲得するはずです。

中国語に限らず、かつてはフランス語すらも「マジョリティの言語」だった時代があります。では学生は本当にマジョリティ言語を学びたいのか?むろん、本当に学びたがっている学生はいるはずです。しかしその大半は「浮動票」ではないでしょうか。その影にはなんとなく「マジョリティ言語」しかイメージできない「文化」があります。それは中等教育の文化であり、日本社会の文化であり、あるいは日常生活の文化です。

我々は知っています。日本がフランスやドイツに強い影響を受けていること、イタリア、スペインといった国も非常に重要であること、古来から今にかけて中国と密接な関わりがあること、韓国との近しい関係があること——そういった常識が共有されず、他国をイメージできぬまま、その時々の流行りでマジョリティ言語に流れる若者が少なくないのだとすれば、我々の敵はやはり日本の外国語学習を取り巻く「文化」に他ならないのです。

そして「文化」を相手取るなら、戦いは大学の外へと向かいます。僕が積極的に学会理事を引き受け、広報に専念するのは、「文化」が敵だと確信しているからです。大学の中で各言語が学生の獲得数を競う「パイ取りゲーム」に興じていても仕方ありません(そのゲームの必勝法ならいくらでもありますが)。問題は日本に蔓延る「文化」を変えることであり、そのためにこそ外部に向けての発信が重要になるのだと思います。