動詞化された寺・神社

月末の講演会の準備をしております。いきなり講演スライドを作る技能がほしいのですが、いつまで経っても「論文執筆→レジュメ作成→スライド作成」という手順を踏まねばダメです。そのためかなりの時間がかかってしまいます。

綿密に計画を立てたとしても、文章化しない考察は「拡散気味」です。それを文章化することにより、考察を「収束」に持ち込むことができます。その手順を経て「コア」ができるので、あとは順序よくレジュメとして並べていけばOKです。今も昔もPowerPointを効率よく作ることができません。

今回の講演は「堀辰雄『大和路・信濃路』に受け継がれるマルセル・プルーストの美学」というテーマです。これまで集中的に取り組んできた文化論を再編集した内容です。この考察が自分に「動詞化」というテーマを教えてくれることになりました。

ポイントは「文化財の評価」に関わります。

僕は寺社仏閣めぐりが趣味だったのですが、歳を取るにつれ、「幼少期を過ごした街の寺・神社」を思い出してばかりです。地元・弘前はしばしば神社が「倒産」するので、思い出の場所が失われていく気分です。弘前には夏場に「宵宮」と呼ばれる縁日が催され、いろいろな寺・神社で持ち回りで祭りが開かれます。そのときの雰囲気や、花火の火薬の匂いなどは、心の原風景として残っています。

毎年の宵宮とともに成長し、神社でラジオ体操をし、初詣に参拝に行き……といった「生活と密着した寺・神社」の記憶が途方もなく大切です。それに比べれば三十三間堂や法隆寺など(もちろん好きですし、よく行きますが)大したことがないのです。

重要文化財として「柵」が穿たれ、手に触れられない存在となった寺社仏閣ではなく、季節ごとに頭に雪を乗せる稲荷狐や、再建したはずなのに古くなっていく鳥居など、ともに時間を過ごす空間こそが興味の対象となります。「文化財としての寺社仏閣」と、「生活の中にある寺・神社」の対比こそ、「名詞としての文化」と「動詞としての文化」の違いです。動詞化された文化を味わうことをプルーストに学び、堀のテクストにその痕跡を発見しました。講演会ではそんな試論を展開することを目指しています。喜んでもらえるといいのですが。