「事実」からシーニュを読み解く

昨日、川西市の満願寺で開かれている個展に行ってきました。たったそれだけなのですが、LINEBLOGにあるように、友人から「あなたが書いたブログをある有名人に送ってほしい」と言われたことが発端です。

普通であれば、言われたようにブログをSNSで有名人に送り、当然のごとくスルーされるだけで終わった話です。でも結局そんなことをしませんでした。何もしなかったわけではありません。むしろ、結果的に満願寺個展の支援やら、新しい研究プロジェクトの構築やら、育児の将来像の模索やらが開けることとなり、また動いていく先々で新たな友人を獲得することになりました。

https://lineblog.me/azusa_etranger/archives/1641328.html?fbclid=IwAR1RWBqHJt7Hz74DdiGRo2Qo91dVmhvSjI03L11JrNpRYlDbCLoRGKpYq1c
あずにゃんLINEBLOG毎日連載中。

いつも「お前が絡むと大事(おおごと)になる」と言われます。そういえば仙台時代、妻が仙台弁護士会館で歌を披露するというイベントがあり、ギターでサポートをしたのですが、それが結果的にCD制作や書籍出版へと繋がっていきました。そんなことがたくさんあります。

確かに僕は何かと話を発展させるようです。時にはそれが大変な面倒を引き起こします。これを「そういう星の下に生まれた」と切って捨てるのは簡単なのですが、あえて理由を考えてみます。

何かの事実に直面した場合、何通りかの受け取り方があります。一番多いのは「事実を事実として受け止めること」です。これは誠実な態度に見えるのですが、実は「スルー」と近いです。

簡単に言うと、ある発表を聞き、「面白かったな」という感想を持つことは多々ありますが、それで話が終わってしまうと何も生まれません。

他方で僕の場合は「やや誇張して受け止める」という癖があるようです。だいたいよく感動して泣いている人間です。出来事を大袈裟に受け止めがちです。

そうなると、そこに「運命」が生じるのです。

常にあれこれ悩みながら生きていると、ある「事実」が目の前に現れたら、まずそれを「運命」だと受け止めます。それは自分の問題を解決する「鍵」なのです。ですからその「事実」を徹底的に自分に置き換えていきます。結果、その「事実」はまったく違う姿に形を換え、自分の問題解決の糧になっていくのです。

「ブログ送って」が「美術館の柵作りをする」に読み替えられ、その経験が「フリースクールを取材する」へ発展し、それが「子どもの教育システムを作る」などという謎の決意に向かっていくことになります。その都度、「事実」は自分用に読み替えられます。小論文風に言うと、「事実」を構成する目に見えない部分を分析し、それを自分用に書き換えていく、という作業です。一般化・普遍化・抽象化などと呼ぶことができるでしょう。

プルースト的に捉え直すと、日常の中で目にする事物が自分に「Signes(シーニュ)」を発信しているのです。我々はそれを読み解かねばなりません。それでこそ人生が始まっていくのです。

プルースト研究は日常に溢れる様々な「シーニュ」に注意を向け、自分にとっての意味を読み解くことを教えてくれます。それは日常で出会う「事実」を自分用に「動詞化」する行為と呼べるかもしれません。